クリスチャンナースからの便り
私は、あるキリスト教系の病院で働く看護師です。数年前、私が勤務する病院に95歳のTさんが救急搬送されました。
Tさんは、娘さんが交通事故に遭い、そのお見舞いに行っているときに転倒し当院に救急搬送され、大腿骨の骨折と診断され入院となりました。母娘二人三脚で生きてきたTさんは「生きるのが辛い」と、入院時から表情がとても硬く緊張されていました。手術後のケアや日常生活援助に関わらせていただいている際、Tさんは病院の敷地内にある教会に興味を持ち、車いすで礼拝にお連れし交わりを持つ中で、だんだんと表情が明るくなっていきました。退院後、ご自宅に牧師さんと一緒に訪問させていただき、一緒にお茶菓子を食べ、賛美歌を歌ったり、部屋や仏壇の掃除、娘さんが入院している病院へお見舞いの付き添いなどに関わらせていただくようになりました。その際、Tさんは「ありがとう、ありがとう」と手を合わし、いつも感謝の言葉を口にされていました。
Tさんはとてもしっかりしておられ、外出される時にはお洒落をしたり、大好きだった野球では巨人選手の名前や番号を全て覚えておられるなど記憶力がよく、どんなことでも興味を持つ姿勢に、周囲の方たちは皆驚かされていました。Tさんが98歳になった時、「わたしもスマートフォンが欲しい」と、生まれて初めてスマートフォンを購入、練習を重ね数日で使いこなせるようになりました。それから毎日のようにLINEでメッセージを送ってくださり、仕事が辛いときでも励ましてくださいました。
一時はケアマネージャーさんから施設入所も勧められていましたが、沢山の方々の支えがあり、Tさんの“娘さんの帰りを自宅で待ちたい”という思いを大切に、皆で協力して在宅での暮らしを続けることができました。Tさんの人生は決して平坦ではありませんでしたが、沢山の方に見守られながら過ごし、いつも感謝で溢れ、皆との関わりの中で、100歳の時クリスチャンとなりました。
それから数年経った春、Tさんの娘さんが入院されていた病院でお亡くなりになりました。『いつか娘が家に帰って来るかもしれない』との思いで必死に生きてこられたTさんは、だんだんと元気がなくなり、夏の暑さを感じ始めたとき、Tさんは自身のお葬式やお墓のことを確認し、最期の時を感じはじめたようでした。その年の9月のある朝、ヘルパーさんがお電話をくださり、急いでTさんのところへ行くと、死戦期呼吸が始まっていました。『ここにいるからね、そばにいるから大丈夫、何も心配ないからね』と話しかけながら『神様、どうかこの苦しみを取り除いてください』と何度も祈り、しばらくして穏やかな表情で眠りにつきました。最期のお着替えをする際、訪問看護師さんやヘルパーさんが「独居で寝たきりの方が、誰かが側にいながら看取りの時をもつのは、なかなかないことですよ」とおっしゃっていました。コロナ禍で大変な状況でありながら、在宅で皆に見守られながら、共に時間を過ごせたことは感謝しかありません。
Tさんのお部屋の整理をしていた際、ある日の日記がでてきました。『皆のやさしさに、何とも言えない。神様のお恵みが。心も身もすっきり。何のくもりもない。毎日の如く皆が来て下さる。こんな嬉しい事はない。ありがたく感謝している。』
6年間、Tさんと辛い時うれしい時を共にし、喧嘩したりもしましたが、悩みを聞いてくださったり一緒に泣いてくださったり、いつも支えてくださいました。またTさんを通して、世代や、宗教、立場を超えて、たくさんの方々と関われたことは、私にとってとてもかげがえのないものとなり、改めて、クリスチャンナースの役割を見つめ直すことができました。これからもTさんのようにいつも感謝を忘れずに、日々歩んでいきたいと思います。